専称寺学園

専称寺の歴史

真宗大谷派の寺院「最上山専称寺」は、さくら並木で知られる馬見ヶ崎川の西に位置し、山形市内随一の大伽藍として知られています。寺の歴史は、1483(文明15)年に始まり、浄土真宗中興の祖である蓮如上人の高弟、願正が現在の天童市高擶(たかだま)に草庵を建て、後に専称寺と号するようになりました。1595(文禄4)年、最上義光の娘である駒姫が、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられた秀次に連座し、わずか15歳で処刑されてしまいます。義光はこれを悲しみ、駒姫の供養のため、姫の生母である大崎夫人が浄土真宗に帰依していたことから、高擶にあった当寺を山形の二王堂小路(現在の旅籠町)に移し、駒姫の菩提寺としました。その後、1598(慶長3)年に寺領を寄進して現在地に移転。壮大な伽藍を建立し、13ヶ寺の塔頭を持つ寺町を造り上げました。4,974坪の境内には、県指定有形文化財の梵鐘や鐘楼、元禄時代に建立された市指定有形文化財の本堂。「雪降り銀杏」と呼ばれる市指定天然記念物のイチョウの巨樹もそびえています。庫裏の一部には、駒姫の居室を移築した一室があり、肖像画も納められました。本尊は、春日作と伝わる阿弥陀如来。最上家から寄進された青磁の花瓶などの寺宝も多く、本堂の四隅にある力士像は左甚五郎作と伝わります。

駒姫のお話

悲劇の美少女「駒姫」は、伊達政宗の伯父であり出羽国の大名である最上義光の次女として、1581(天正9)年に生を受けます。東国一の美少女といわれ、時の関白・豊臣秀次に繰り返し所望され、「おいまの方」として側室に上がることになりました。長旅の果て、やっと京都に着いた頃、秀次は秀吉の命で切腹という悲運。側室として秀次に会っていないにもかかわらず、駒姫も処刑との命が下ります。この事態に、義光は八方手を尽くして必死の命乞いをしますが、その思いもむなしく、1595(文禄4)年8月2日、牛車に乗せられ引き回しにされた後、駒姫は凄惨極まる方法で刑場の露と消えてしまいました。一説には、義光が淀君を通じて助命嘆願を行い、秀吉も「鎌倉で尼にせよ」と早馬を走らせたが、一足遅かったとも伝わります。処刑された遺体は幼子も含めて次々と穴に投げ込まれ、「悪逆塚」と彫られた石が据えられました。義光夫妻の嘆きようは尋常ではなく、間もなく駒姫の母である大崎夫人が後を追うように亡くなってしまいます。義光の恨みは深く、関ヶ原の戦いでは豊臣方に敵対する東軍に属し、その功績により出羽山形藩の初代藩主となりました。

アクセス

【場所】山形県山形市緑町3-7-67(山形駅から徒歩で約15~20分)

【電話】023-622-5981

【時間】随時

【定休】無休

【その他】●本堂(市指定有形文化財) ●鐘楼(県指定有形文化財) ●大イチョウ(天然記念物)

【宗派】浄土真宗大谷派